2016年12月14日

エセ歴女のしったかぶり

フェイスブックのほうにコメントがあったので
えらそうに、しったかぶっちゃって、少し書こうと思います。

大阪夏の陣には、いくつかの戦いがありましたが、やはり最大の山場は、「道明寺の戦い」でした。
真田信繁(以下、幸村とします)は、
ここで後藤又兵衛を失くし、豊臣の敗けを現実のものにしたと思います。

この戦で、幸村が直接戦ったのは、伊達軍で、伊達政宗の側近の「片倉小十郎」でした。
(小十郎は、政宗の悪い目玉をくりぬいた話も残っている側近で、政宗より10歳年上の勇猛な男。
 政宗の養育係りが小十郎の姉で、身内の愛情が少ない政宗にとって、
 小十郎との関係兄弟・親子以上のきづながあったと思われます)

その小十郎が、政宗に先がけて、鉄砲で幸村と激しい戦いをした。
その時、幸村も小十郎も、互いにその戦いぶりに武将としての器の大きさを感じ入ったと思われます。
敵ながら、アッパレ!と。
そして幸村は愛する子供たちを小十郎に託し、
小十郎も、幸村の思いを受け止めて、家康から幸村の子供たちや真田の家臣を守り抜くのです。

この時代の武将の眼力というか、人を見ぬく力の凄さと、義をつらぬく凄さは、
私の想像をはるかに超えるものです。
もしもバレたら、切腹だけでは済まされず、
片倉の家も、ヒョットシテ伊達家さえもおとりつぶしになるやもしれないのですから。

これと同じような話は、大谷刑部の側近・湯浅五郎と藤堂高刑にもあります。
当ブログの昨年の9月15日(武士の約束)を、読んでいただければいいかと。

  幸村の娘のお梅はその後、小十郎の正室にもかわいがられ、正室亡きあとには、
  小十郎の継室となって、真田の名を汚さず、家来たちに慕われ、片倉家を守っていきます。

いかがでしょうか?こんな程度でよろしいですか?
ご質問の、信之の元正室や、側室きり、などについては、話が長くなるので、いずれまた・・・・。
またいろんな裏話などは、お目にかかった時に。
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2016年08月04日

真田丸に、もの申す

NHKの「真田丸」、面白いですねえ!!

前々回に放送された「秀次事件」については、
歴史大好きな私が興味をもっている事件のひとつなんですが、
どうもあのNHKの展開は納得ができません。

あれは、
矢部健太郎氏の著書「関白秀次の切腹」の、新解釈を参考にしたらしいのです。
(そして先ほどBSで放送された「歴史捜査」の秀次事件解明番組も、矢部健太郎氏監修でした)

    「秀次は勝手な思い込みで自害してしまった――!
     秀吉は切腹の命令は出していなかったー! そんな描き方をしていました」

・・・・・・が、本当にそうだったのでしょうか???。

あの描き方では、秀次も秀吉も心優しい良い者で、
実は悪い人は誰ひとりいなかったことになって、めでたしめでたしの展開になってしまうのです。

百歩譲って、
秀次がうつ病状態で勝手な思い込みだったとか、身の潔白を証明するために武士らしく切腹したとしても、
そのあとの秀吉の凄惨な処理を、どう解釈すれば良いのでしょう? 

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   正室・側室・若君・姫君39名。
   (諸説あるようですが)
   4歳の仙千代や幼い姫君や
   目通りもしてない側室さえも、
   牛車にのせ都をひき回し
   5時間もかけて、次々と
   公開処刑する理由です。
   そして、
   邸宅にしていた聚楽第や近江八幡城を
   ことごとく破壊させたこと。 
   ・・・・他にも、まだあります。
   叔父・甥の互いの思い違いで
   起きたような軽い事件では絶対ない。
   狂気に満ちています。
   この39名も殺した出来事は事実です。
   この事実を、新解釈とやらでは、
   どう説明するんでしょう。

     
   こちらの写真は、秀次の正室・側室・子供たちの
   お墓がある、京都・三条の瑞泉寺です。
   斬首されていく有り様を見た旅の僧・順慶が、庵をむすび、
   秀次のご典医だった角倉了以の弟が、角倉了以と共にお寺を建てました。
   (4・5年ほど前にお参りしてきた時のもの)
   
posted by パッサカリア at 22:45| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

晴れ夫婦の歴史旅7


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   さて、移動中はことごとく雨降りで、
   車から降りると必ず晴れる!という、
   不思議な旅も、いよいよ最終章です。
   
   八坂の塔を見上げながら、
   清水寺にむかって、
   三年坂にある「清水三年坂美術館」へ。
   明治の職人の緻密な技に
   目をうばわれ、心うばわれてきました。

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   そしてお馴染みの「霊山歴史館」。
   近藤さんと土方さんの刀が
   150年ぶりに京都で再会!というので、
   お邪魔しました。

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  京都のお土産は、六波羅密寺の前にある、
  幽霊子育て飴本舗の「幽霊子育て飴」。
  ここの飴は、クセが無く美味しいんです。

  お店の方がおっしゃるには、
  500年前からここで飴屋をやっていて、20代目とのこと。
  飴の材料の配合は500年前と同じ!だそうです。

  ・・・・・今から413年前、関ヶ原の戦いの前の年、
  夜なよな女の人がやってきて、飴を買っていきました。
  おかしいと、あとをつけると 鳥辺山の墓場までいきました。
  ・・・と、乳飲み子の鳴き声が・・・・
  墓を掘り起こすと、飴をしゃぶった乳飲み子がいたというのです。
  死んでもなお我が子かわいさで 飴を買いにきたと。
  この子、8歳で僧となって母の菩提を弔い、68歳まで長生きしたそうです。

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  いとも簡単に、
  500年前から
  営んでいる!という
  飴屋さんの言葉に
  たじろぎながら、
  今の人も昔の人も
  飴屋も武将も
  一つの事を
  貫き通すことの
  凄さに圧倒された、
  「晴れ夫婦の歴史旅」。
  
  いよいよ完!!


  
  
    

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2016年07月19日

晴れ夫婦の歴史旅6

選挙権が18歳になって、若者への期待が大きくなってきました。

乱世の若者も、見事な生きざまで名を残しています。
今回の旅の中心人物である「楠木正行(まさつら)」、
父・正成と行動を共にしてきましたが、
桜井の駅で父に諭され、別れたのが11歳(諸説あるようですが)。
そして一族を率いて再び足利軍(高師直)と戦い、
四条畷で自刃したのが23歳。

(今回の旅では回れませんでしたが)
北畠顕家は、義良親王を奉じて陸奥へ出陣したのが16歳。
そして、後醍醐天皇へ建武の新政の諌奉書を書いたのが21歳。
乱世の若者の凄さと言ったら、驚くほかありません。

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  大阪の桜井の駅跡をあとに、
  正行の首塚がある京都・嵐山の宝筐院へ。
  それは、
  嵐山の喧騒から離れた清凉寺のすぐ隣にありました。

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  参拝者は、
  我ら夫婦のみ。  
  さっきまでの雨が
  上がり、
  濡れた石畳も
  青もみじも、
  美しい〜。

  この先の正面に、正行の首塚があります。
  
  正成・正行親子と親交があり、
  後の事をたくされていた宝筐院の黙庵和尚は
  正行の討たれた首をここに葬り、
  弔ったと伝えられています。

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  右側に楠木の紋所・菊水、正行のお墓です。
  後に、
  この話を黙庵から聞いた足利義詮は、
  正行の人柄を褒め称え、
  自分もその傍らに葬るよう頼んだと
  いいます。 それで、左手に
  室町幕府2代将軍足利義詮のお墓です。

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  このお堂に、
  正行の木像が
  祀られていますが、
  小さくって暗くって
  よく見えません。

  正行の顔をこの目で見たい!
  父と共に命を懸けて貫いた若武者の顔を見たい!!と。

  レンズを望遠にして・・・・・も、真っ黒で写らない。
  と、後ろからISO感度を調節して!との、神の声が・・・(いや、主人の声)
  ・・・で、写しました(今の私の技術ではこれが精一杯)。

  お目にかかりたかった。
  子供の時、父が歌って聞かせてくれた桜井の訣別の歌のあの時から。

  この旅の主役・楠木正行公。

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  いよいよ私の旅ももうすぐ終わりです。
  次回は最終回。 少し観光と、幽霊の飴のお話です。

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2016年07月18日

晴れ夫婦の歴史旅5

2日目は、私の興味の歴史旅です。

吉川英治の「私本・太平記」を読んでみて(実はまだ途中です)、
裏切ったり裏切られたりの乱世の中で、
決してぶれない人たちの生きざまに興味を持ちました。
その人たちとは、「楠木正成・正行親子と、そして北畠親房・顕家親子」
今回は、河内の交通や港の利権を持ち、
土地の人にも信頼され、勢力を拡大していた楠木正成・正行親子を訪ねました。

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  楠木正成について、
  深く同情することがあります。

  後醍醐天皇に認められたことが、
  身分の低い正成ににとって、
  末代までの名誉であり、
  そのご恩に報いる事が
  正成の生きる目標だったに
  違いありませんが、
  同時に、それは破滅の始まりでした。

  後醍醐天皇の政策が、この時代にそぐわないことは、
  分かっていた(と私は思っている)。
  にもかかわらず、後醍醐天皇をお守りする道を、貫き通す。 

  しかしながら、九州から攻めてくる数十万という足利軍に勝つための、最後の秘策も、
  一笑にふされ、ことごとく意見はとりいれられない。

  所詮、後醍醐天皇や公家たちから見れば、武士たちは、戦のコマであったにすぎず、
  ましてや河内の国の悪党の楠木正成など、ものの数ではなかった。

  そして、あの有名な、
  ♪青葉しげれる桜井の〜〜〜♪の歌にある「桜井の訣別」です。

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1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か

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  2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
    父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
    汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ

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3.父上いかにのたもうも  
  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  
  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  
  御供(おんとも)仕えん死出の旅
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  4.汝をここより帰さんは  
    我が私の為ならず
    おのれ討死為さんには  
    世は尊氏の儘(まま)ならん
    早く生い立ち大君(おおきみ)に  
    仕えまつれよ国の為

  5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  
    君の賜いしものなるぞ
    この世の別れの形見にと  
    汝(いまし)にこれを贈りてん
    行けよ正行故郷へ  
    老いたる母の待ちまさん

   ある本によると、
   ゲリラ戦を得意とした正成のことだから、
   湊川の戦いでも、生き延びることが
   出来たはずだ・・・と。(私も、そう思う)
   しかし、正成は死を選んだ。 
   最後の策さえも認められなければ、
   もうこれは死ぬことしか、正成の道はないでしょうよ。
   あとは、息子が成人となったその時代に、託すしか・・・・・

   次回は、父の遺志をついだ正行と、敵である尊氏の息子・義詮に会いに!!
   (つい力が入って長々と書いてしまいました。最後までお付き合いくださり有難うございました)

      


  

  
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2016年07月17日

晴れ夫婦の歴史旅4

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  朝早くに出発して、ノンストップで、奈良へ。
  ひと休みに、
  宇陀の道の駅で、清流を眺めながら
  昼食に、「にしんそば」をいただく。

  京都じゃあ〜あるまいし、奈良でにしんそば?
  まあ〜いい、好きなものが嬉しい。

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  そして、夕食。
 
  2人で旅を
  するように
  なって、
  型にはまった
  宿の夕食はせず、
  少しネオンでお化粧をした街並と
  土地の人たちの息づかいを感じつつ
  行きあたりばったりで、
  美味しいものを探すようになりました。
 
  佐保川の橋のたもと。母娘二人の小ざっぱりとした居酒屋の暖簾をくぐりました。   
  

  まだ7時だというのに、シッカリ出来上がったおじいさんが、
  お店のおねえさんと、他愛もない会話中〜〜!
  外国人と日本人とセットのお客。刺身の盛り合わせを説明中〜〜!
  よ〜く飲む大阪弁のおばちゃん2人。朝ドラの話で盛り上がってる。
  そして、私たち夫婦。
  珍しい食べ物を探すのにメニューとにらみ合いっこ。
  ≪ふわとろ焼き≫。 
  これってなに??早速、注文。
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  出てきたのがこれっ!!
  すりおろした大和イモに生姜や鰹節など混ぜ、焼くのだそうで、
  トッピングは明太子とマヨネーズと海苔。これがとっても美味。
  (コレ、作れそう〜婿さんたちに作ってあげたい)

  「また奈良にご旅行の時は、おいで下さ〜い」という言葉に見送られながら、
  遠くに、ライトアップの大極殿を眺め、ぷ〜らぷらと宿に戻りました。

  さて、主人の奈良の旅は終わり。いよいよ次回は、私の歴史の旅がはじまります。

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2016年07月15日

晴れ夫婦の歴史旅3

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  万葉少年?の
  説明によると、
  日本最古の神社!
  だそうで、
  その最古の
  「石上(いそのかみ)
  神宮」へ。

  石上神宮を
  中間地点として、

  北に行けば奈良、南に行けば三輪・桜井へと、山の辺の道が続いています。
  この神宮を行きかう万葉人の姿を思い描きながら、参拝です。

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  やたら人懐っこい鶏が
  私をめがけてやってきました。
  あれ〜れ〜〜〜Σ(゚c_゚)

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  鬱蒼とした森の中の社殿から、
  雅楽を練習する音が
  聞こえています。
  まったりとした響きが
  実に、優雅です。

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  いよいよ主人好みの奈良の旅も
  佳境に入りました。
  
  途中、悲劇の皇子・大津皇子が
  埋葬されているという二上山を
  正面にのぞみながら、
  今夜の宿へ移動しました。

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   次回は、奈良の美味しいものを
   ご紹介しましょう〜(*^_^*)
 



posted by パッサカリア at 11:29| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

晴れ夫婦の歴史旅2

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 次に訪れたのは、
 奈良県葛城市にある
 「當麻寺(たいまじ)」。

 山門の前で、
 写生をしていた中学生が
 関わることなど
 ないはずの旅の私たちに
 雨上がりのような
 爽やかな響きで、
 「こんにちは〜」と声を
 かけてくれました。
 それは一瞬の
 たおやかな時の流れでした。
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 中学生をあとにして、當麻寺に入ると、
 ここで作られていた漢方薬の
 陀羅尼助の大きな釜が
 出迎えてくれました。
 (主人は子供の時にお世話になったと)
 
 いよいよ
 このお寺で尼となった中将姫の
 剃髪のお堂へ向かいます。
 中将姫のお話はとても悲しい。
 以下、主人の解説や大和の傳説などを元に、
 私なりにまとめてみました。

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   藤原鎌足の曾孫・藤原豊成の娘・中将姫。
   5歳で母親と死別し、9歳の時に、
   孝謙天皇のご前で琴を演奏をするなど、
   美貌と才能に恵まれましたが、
   同時に、継母から憎まれ、
   虐待を受けるようになります。

   継母は、姫の命を奪うように
   家来の松井嘉藤太に命令します。
   宇陀の山奥深く、
   姫を輿に乗せてた嘉藤太は
   「お命を賜ります、お覚悟を」と
   申し上げると、姫は、
   「母上の言い付けならば是非もない。しかし、
   私は一日に七巻の経文を読む習わしで、
   今日は三巻読み残している。残りの経文を読むまで、待ってもらいたい」と頼まれた。

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  読経をおえた姫は、
  「思い残すことはない。首を持ち帰り
  母上に見せておくれ。」
  しかし嘉藤太は、信心深い姫を
  救う決心をします。
  家にもどり、どうやって姫を救ったらよいかと
  妻と相談していると、話をきいていた娘が、
  姫の身代わりとなって自害します。

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  自分がいるばかりに継母や
  家来の嘉藤太の娘を不幸にし、
  また自分が生まれたばかりに
  実母の命は亡くなり、
  この世の無常を感じた中将姫は、
  19歳の時、當麻寺へきて
  名を中将法如尼と改め、一心に修行します。


  26歳の時、ひとりの老尼が現れて、
  蓮の茎を集め、その蓮糸の筋をとって、曼荼羅を織ることを命じました。
  中将法如尼は、
  織りあげた曼荼羅を本堂にかけて、懸命にいのっているうちに、
  生身の阿弥陀如来と二十五菩薩のお迎えを受けて、生きながら西方浄土へ旅立たれたといいます。

  悲しい悲しいお姫様のお話でした。

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2016年07月13日

晴れ夫婦の歴史旅1

天気予報では、本日降水確率90%。
予報通り、朝から雨降り。
かねて計画の通り、お互いが抱く歴史にむかって、奈良と京都を目指して出発しました。

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  一日目は
  主人の希望の奈良を訪れる旅です。

  まず第一に、昨年の夏、
  残念ながら見つけることが出来なかった
  「天智天皇・持統天皇陵」。
  探しあてました!
  そこは、青田に囲まれ野の花が咲くところにありました。

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  そして、中大兄皇子(天智天皇)が、
  蘇我入鹿の首をはねた、母君・皇極天皇の板葺宮跡へ。

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  板葺宮跡を見まわし、
  指さしながら
  「まさにこの場所で
   歴史が動いたんだよ」と、
  私に
  得々と説明する万葉少年?が一人。
  
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   板葺宮跡を眺めるように
   天智天皇の第七皇子・志貴皇子の
   お歌が石に刻まれていました。

   ≪釆女の袖吹きかへす明日香風、
        みやこを遠みいたづらに吹く≫
  
    釆女の袖を
    ゆらゆらと揺らしていた明日香の風も
    今は、藤原宮に都が遠く移って、
    空しく吹いているよ

   天智天皇が崩御されたあと、大海皇子から、(天智天皇の)弟君・天武天皇が即位され、
   志貴皇子は、
   あやしいそぶりを見せると、大変なことになる微妙な位置にいらっしゃったので、
   お歌もさびしいものが多いんだとか(主人の説)

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   移動中はすべて雨降り。でも車を降りると、なぜか雨が上がります。
   旅の途中でひいた傘の形のおみくじは「大吉」。
   天候に恵まれた?晴れ晴れ夫婦の歴史旅は、まだまだ続きます。

   次回は、
   奈良時代の、日本版・白雪姫についてお話いたしましょう〜。
   (主人の受けうりですが・・・・)
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2016年06月24日

赤橋(北条)守時という武将

夜ごと飛行する「私本太平記」号という名の我がタイムマシーンは、
九州に敗走する足利尊氏を現在、追跡中。

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    沢山の人の名前に混乱しながら、
    裏切ったり裏切られたりに振り回されながら、
    「私本太平記」を細々と読み続けています。

    これまでの山場は、なんといっても
    ≪鎌倉幕府滅亡の時≫ですが、
    滅びゆく鎌倉幕府の、、
    最後の執権・赤橋(北条)守時を、
    私なりに調べてみました。

    守時は、、
    足利高氏(尊氏)の正室・登子の兄です。
    高氏と登子の結婚は、
    鎌倉幕府の御家人の中でも
    一番力があった足利氏を、
    北条氏に確かに従属させる政略結婚でも
    ありました。

    高氏の、まさかの裏切りに、
    人は、守時も、義弟の高氏と共に幕府に反旗をひるがえすのではないかと、
    噂したのですが、
    守時は、鎌倉幕府と共に生き、そして燃え尽きる道を選びました。
    鎌倉の洲崎で、わずかばかりの兵と共に戦って、破れました。

    世は血なまぐさい戦乱の時代です。
    こういう曲げない生き方をする人が、光ってみえます。

    

  
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2016年05月27日

太平記を読む

歴史が好きです・・・が、
恥ずかしながら、「南北朝あたり」が、こんがらがってよくわからないのです。

よくわからない理由のひとつに、
足利尊氏がどうもイケスカナイ!(あくまでも私個人の好みです、尊氏ファンはごめんなさい)ですし、
北条高時・北条守時・北条仲時・・・・同じような名前が登場して、
単細胞の頭を、さらに混乱させているというのもあります。
・・・・で、これでは恥ずかしい!! 
一念発起して「太平記」を読んでみようかと。
それで、
吉川英治の「私本太平記」全14巻にチャレンジすることにしました。

ただ今、「私本太平記」という名のタイムマシーンに乗って、
日野俊基が捕らえられ、鎌倉幕府に連れていかれたあたりを、散策中!!


「蓮華寺」。
六波羅探題の武士たちが足利尊氏に攻められ、6歳の子供も含め432名が自刃した米原市にあるお寺です。
2年前の夏、そのお墓をおまいりしました。
このお墓のもっと山の奥に、長である北条仲時の本当のお墓があるそうですが、
鬱蒼として道らしい道も無い感じです。
ご住職も、もうここ何十年も行ったことがないとおっしゃってました。
檀家さんが10ケンしかなく、手入れも行き届いてない感じで、
それも悲しく涙をさそいました。

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2016年05月03日

秀吉の母「なか」

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  先週の大河ドラマ「真田丸」を見て、  
  御器所(名古屋市内)に、
  秀吉の母「おなかさん」が
  暮らしていた跡がある!と
  知りまして、
  午前中に一度(見つけれなかった)、
  さらに調べなおして、
  午後に一度、出向き、見つけました。
    
  御器所と荒畑の中間地点。
  それはヒッソリと、
  住宅街の片隅にありました。

  秀吉の出世によって、
  貴族でも難しかった従一位を
  農民の出で授かる!という、
  前代未聞の幸運に恵まれた人ですが、


  息子・秀吉がのし上がるために、人質になったり、
  娘・旭姫や、次男・秀長に先立たれたりと、波乱の人生を送った人です。
  この人の幸せは、田や畑を耕し、額に汗して働くことにあったのではないかと、
  思わずにはいられない。

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2016年02月12日

歴史の謎を探る会

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 鶴舞の古本市の、雑然と、しかもうず高く積み上がっている古本の中で、
 出会ってしまった一冊の文庫本。(1冊50円で、さらに半額でした)
  
    「比べてみると実像が見える 日本の三大武将 信長・秀吉・家康」

 雑学的なたぐいの本は、読んでいる内に、購入したことを後悔することが
 時々ありますが、この本はさに非ず。
 生い立ちから戦略方法・金銭感覚から文学的センスなど、36のテーマにそって、
 まさに微に入り細を穿つ比較・内容。 また、語彙の豊かさも、際立っています。
 著者が「歴史の謎を探る会」だそうで、
 このちょっと怪しげな著者名も興味をそそられます。

 他に2冊購入して、読みはじめました。歴史の好きな方におススメです。
 (出版社がKAWADE夢文庫ですが、大手本屋3店にも無くって、取り寄せました)

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2015年09月16日

関ヶ原から長篠へ

月曜日は関ヶ原、そして今日は長篠へ行ってきました。
歴史が好きなので、こういう旅は、面白いです。

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    長篠城奥平氏の足軽・鳥居強右衛門を追いながら、
    長篠城址史跡保存館、設楽原歴史資料館も行き、
    今までよくわからなかったいくつかの謎が、解けました。
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    わずか500人で
    武田軍15000人と戦うことに
    なった絶対絶命の長篠城奥平氏。
    これを救うために、ひとり夜陰にまぎれ城を抜け出し、
    家康と信長に援軍をたのむために、走った強右衛門。
    写真の右奥から、強右衛門が無事、城を脱出したという合図の「のろし」をあげた辺り。

    地方の小さな城主が、
    より強い者にくっつくより生き残ることが出来なかった戦国の世。
    この長篠城の奥平氏も、例外ではなく、
    その時々で、今川・武田・家康と変わっていたようです。
    そして最後に
    小さな城主が家を守るためにしたことは、
    祖父・貞勝が武田側に残り、長男・貞能が家康に変ったこと。
    どちらかが負けても、どちらかが生き残れる・・・・苦肉の策です。
    
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  この戦さの犠牲になったのは、
  武田側に人質となっていた
  本家の次男仙千代10歳・分家の娘於こう16歳・虎之助?。
  本家筋が信長・家康側に付いたため、
  武田勝頼の怒りにふれて、磔になりました。
  乳母たちが、3人のさらし首を奪還しようと、
  隠しくるんだ白い布が血染めのまま、今も残っているそうです。

  長篠の戦いによって、時代の流れが、
  いよいよ信長へ大きく変わっていくのです。

  長篠城址の草生すお堀には 雨に打たれながら彼岸花が、咲いていました。
     
posted by パッサカリア at 22:42| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

武将の約束

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   あなたは日本の歴史の中で、
   だれが好きですか?
   アンケート情報によると、人気ナンバー1は、
   坂本竜馬だそうでが・・・・・
   
   今日は、
   私が大好きな武将の一人「大谷刑部吉継公」と
   その側近の「湯浅五助」のお墓に参りに、
   関ヶ原まで行ってきました。
   奇しくも大谷刑部と湯浅五助の命日が
   9月15日、明日でした。

  おわかりとは思いますが、チョックラ歴史の復習!!

  大谷刑部は関ヶ原の戦いで負けるとわかっていたにもかかわらず、
  強い信頼で結ばれていた石田三成に加勢します。
  この時、刑部は、ハンセン氏病に侵され、すでに視力も無く、
  損傷した皮膚を隠すため、顔には白い頭巾と死に装束で、指揮をしたそうです。

  平塚為広など名だたる家来が破れ、いよいよ敗色が強くなったことを悟った刑部は、
  側近の湯浅五助に「病気で崩れた顔を誰にも見せるな!」という言葉を残して
  自刃します。
  湯浅五助は刑部の首を隠すために穴を掘って埋めますが、
  運悪く、藤堂高虎の甥・藤堂高刑(たかのり)に見つかり、
  そして、刑部の側近中の側近である湯浅五助ということも、バレテしまいます。

  高刑は、湯浅五助ほどのものが、主君の居場所を知らぬわけがない!と詰問し、
  もしやこの周辺に、主君の遺体を埋めて隠したのではないかと詰め寄ります。
  
  湯浅五助は、確かにこの周辺に主君の首を埋めたが、
  「病気の顔を絶対に見られたくない」との命を破るわけにはいかない。
  自分の首を差し出すから、主君の命を守らせてほしい、と懇願します。
  この言葉に、高刑は大いに感激し、湯浅五助の願いを聞き届けました。

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      それは鬱蒼とした関ヶ原の山の中深く、
      まるで主君大谷刑部に寄り添うように、湯浅五助のお墓がありました。
      義にあつい大谷刑部、主君を守り抜いた湯浅五助、そして平塚為広。
      戦国の武将たちの声が聞こえてきそうな・・・・兵どもが夢のあと。


   この話には余談があります。
   陣に戻った高刑は、家康に、湯浅五助の首を見せ報告しますが、
   家康は、「主君の最期を見届けずに、側近中の側近が死ぬとは思えない、何か隠しているな?」
   (と、言ったかどうかはわかりませんが・・・)

   高刑は手打ち覚悟で、
   「湯浅五助との約束を破るわけにはいきません、たとえ家康様でも話すわけにはいきません」
   家康は高刑の律義さを大いに褒め、自分の刀と槍を褒美に与えました。

   そしてのちに刑部の墓は、藤堂家によって立てられたそうです。
posted by パッサカリア at 00:23| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする