2018年06月13日

池田屋の謎

≪NHK BSプレミアム「風雲!大歴史実験」 池田屋事件〜新選組マジックの謎を暴く〜≫が
メチャクチャ面白く、興味深かったです。

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   幕府転覆を謀るため、
   勤王浪士たち20名、池田屋に集結。
   それを察知した新選組が
   池田屋に突入したのは、
   祇園祭のお囃子が聞こえる中でした。
   新選組はわずか4名。
   近藤さん・沖田さん・藤堂さん・永倉さん。
   そのうち、沖田さんは吐血、
   藤堂さんは額を切られて
   戦力にはならず、
   20名を相手に戦ったのは、
   近藤さんと永倉さんのふたり。

   京都の霊山会館で、池田屋の模型が
   展示されているのを見ましたが、
   どうやって戦ったのか!までは、
   理解できていませんでした。

   しかしその謎を、BSプレミアムでは、
   8畳6畳3畳の三間の池田屋を正確に再現し、20名(大学の剣道部・3段の有段者)と、
   近藤さんの天然理心流・試衛館の館主&師範代とで戦うという実験を敢行。

   実験が開始されると、近藤さんたちが勝った理由がわかってきました。
   なにせ、池田屋は狭い。
   鴨居までは180センチ、障子と障子の開いた長さが140センチ。
   この狭い空間では、少数しか戦えない。20人いても戦える人はせいぜい3〜4人。
   後ろの人たちは戦えない。
   実にリアリティーあふれ、「そっか〜あんなふうに戦ったんだ〜!」 納得です。
   それにしても、天然理心流はすごい!強い!

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   そこで、解説の先生曰く、
   江戸時代になると剣の道は、
   防具に竹刀を使った練習で、
   様式化して美しい太刀筋であった
   のに対して、
   天然理心流は、
   これまでにはない複数対一人の対戦や、
   敵の意表を突く技や、柔術や棒術、
   本物の剣での練習も怠らず、
   言ってみれば、なりふり構わない
   (武家社会には人気のない)武骨な
   実戦向きの剣の道であった。  
   だからこそ、
   勤王浪士たちと、新選組とは、
   歴然とした違いがあって、
   勝つことが出来た!と。

   それにしても、京都の治安を守るために、何人いるのかわからない池田屋に、
   たった4人で突入した近藤さんたちは、実に勇敢です。
   久々に、納得のスゴイ番組を見てしまいました。

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2018年05月26日

南北朝時代の疑問

南北朝時代は、とっても複雑で難しいです。
手軽なTVの歴史番組も、信長や家康は扱っても、あまりこの時代の事は扱わないし、
本も、やたら難しい・・・・・・・・
そんな南北朝の時代に、魅力を感じるのですから、困ったものです。

さてさて自称・歴オバのパッサカリア、今宵もこの難解な南北朝の時代へ旅をしますので、
ご一緒していただければ、幸いです。

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   かねがね私が疑問に思ってきたことがあります。
   それは、
    ≪後醍醐天皇の側近でもある名門・北畠家。
     その嫡子である北畠顕家卿を、
     なぜ、奥州(東北)へ国司と鎮守府将軍として、
     行かせたのか?顕家はまだ16歳です。
     奥州は遠いです。
     他の人材はなかったのでしょうか?≫・・・・・不思議でした。 
    どの本を読んでも、その理由が不明でした。


   ところが、古本屋で買った歴史の本の中に、
   陳舜臣氏の「北畠の軌跡」があり、その疑問が、一気に解明しました!!

  陳舜臣氏いわく、
   「奥州は、京都の朝廷にとって辺境であった。ー中略ー
   奥州の土着勢力は、朝廷とのつながりは極めて薄く、
   彼らの所領を安堵してきたのは、鎌倉幕府であって朝廷ではない。
   ここはいわば、建武政権の弱点。
   この弱点補強のために、幼い6歳の義良親王をつけ北畠顕家卿(父の親房卿も)を送り込んだのです。
   奥州とのつながりを強化するには、軍事面だけではなく、文化面も重視しなければならなかった。」と。

  だから、京都の文化人のトップであった北畠顕家卿でなくてはならなかった。
  それほど未知数に豊かな奥州の地が必要だった。
  

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   北方謙三氏の「破軍の星」も、(あくまでも小説として)読んでみました。
   16歳で国司・鎮守府将軍となり、激戦を重ね、
   21歳で亡くなる数日前に、後醍醐天皇に諫奏文を上奏したこの若き公達を、もっと知りたいと・・・・・・
   
   これは別口ですが、無料のバス旅行での金ヶ崎神社参拝で、
   新田義顕公とともに自害された尊良親王や、
   毒殺されたと伝わる恒良親王がいらしたことについて、知りました。

   後醍醐天皇は、どうして戦いの場へ次々と親王たちを赴かせられたのか?
   他の親王たちは、どういう運命をたどられたのか?
   そこらへんを調べるべく、図書館で本を借りてきました。

   まだまだ南北朝の謎を解明する旅は、続きます。
   メジャーではない歴史旅にお付き合いくださり、まことにありがとうございました<(_ _)>
 
posted by パッサカリア at 10:50| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月08日

大楠公さんの旅5

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  小楠公さんを主祭神とし、
  弟の正家公はじめ、共に戦った一族24柱を
  お祀りしている「四条畷神社」。
  今回の旅の終点です。

  小楠公さんが、死を覚悟して
  吉野の如意輪堂に書き残したという

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   「返らじとかねて思えば梓弓 
           なき数に入る名をぞ留むる」。
 
   その書き記した姿の絵馬が、
   なんと〜、
   こちらの社務所にありました。
   おそらく吉野の山奥の如意輪堂までは、
   行くことはないでしょうから、
   この場で、絵馬を頂戴しました。
   私の宝物にいたします。

   小楠公さん、亡きあと、
   弟の正儀公が受け継ぎます。
   正儀公は、身重の正行夫人を
   離縁させてしまうのです。
   (これは、助命のためと
   パッサカリアは想像します)
   身重のまま正行夫人は、
   池田ナニガシへ嫁いで、男子を出産します。
   その男子は、池田家の男子であるはずですが、楠木家嫡男に付ける幼名「多門丸」をもらい、
   のちに「池田教正」となって、活躍します。

   正儀公は、その後、南朝の重臣となって活躍はするものの、
   強硬な首脳陣から責められ、幕府に降参するはめに。
   そして、その数年後にまた南朝にもどってくるという、苦悩の日々をおくります。

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   ここで最後に愚痴りたいのは、
   やはり、後醍醐天皇です。
   その政策や人となりです。
   ・・・・

   人望を失いつつあった後醍醐天皇と
   武士たちの信頼の厚い足利尊氏。
   その様子を
   冷静に見定めてきたからこそ、
   あと一歩で倒すことができた打出浜で、
   大楠公さんは尊氏を追撃しなかった。
   ・・・・・・・
   山道を登り、風を感じ、
   鳥のさえずりを聞きながら神社仏閣を訪ね、
   ある時は、惻隠の情を! 
   人としてあるべき姿勢を!
   そして、決して屈しない精神を! 感じました。

   長い間、パッサカリアの薄っぺらな歴史感想と、
   華やかさのない田舎の旅へお付き合いくださり、まことにありがとうございました。


   
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2018年04月07日

大楠公さんの旅4

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    後醍醐天皇が
    落ちていかれた「金剛山」を
    仰ぎ見ながら、
    千早赤坂城の戦で
    亡くなった兵たちを弔うために
    大楠公さんが建立されたと伝わる塚を、
    探しました。
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  上の写真が身方の兵たちの「身方塚」。
  そして、右の写真は、
  敵方の兵たちの「寄手塚」。

  身方の塚(130センチ)よりも
  大きな塚(180センチ)を
  敵方の兵を弔うために建立されました。


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  敵方の兵さえも
  手厚く処遇するこの精神は、
  息子の正行公(以後、小楠公さん)に
  脈々と引き継がれていきます。

  父亡き後、守護職や国司に任命されながら、
  虎視眈々と足利討伐を狙っていた小楠公さんです。
  淀川にかかる渡辺橋(住吉の戦)で、
  敵方の兵500人あまりが
  真冬の川へ落ちて行ったとき、
  それを救いだし、
  衣服や薬を与えて治療しただけでなく、
  鎧や馬までも与えて返したと、太平記にあります。

  実はこの話には、後日談があります。
  明治時代に、日本が赤十字に加盟するおり、
  このエピソードを欧米に紹介したところ、あっさり加盟が認められた!という話が伝わっています。

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  今回の歴史旅で訪れたのは、このほかに、大楠公さんの首塚などがある「観心寺」、
  奥方・久子さん(と伝えられている)が出家した尼寺を訪れました。

  南河内千早赤坂村は、平成の今の世も、静かな山の中です。
  まるで私たち夫婦を歓迎するように、ウグイスが鳴き、今を盛りに桜が咲き誇っていました。
  いよいよこの次は、今回の旅の最後です。
  父の遺志を受け継いだ小楠公さんの終焉の地・四条畷神社に参拝します。

  
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2018年04月06日

大楠公さんの旅3

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  我ら夫婦の旅の
  もう一つの楽しみは、
  「道の駅」巡りです。
  その土地土地の珍しいもの、
  新鮮なもの、美味しいものを
  見つけるのが、楽しみです。

  千早赤坂村の
  「道の駅かなん」で、
  この地方特産の「若ごぼう」をみつけました。
  なんじゃこれは??
  茎と葉っぱは、ふきっぽいですが、3センチほどの根っこは、ごぼうのようです。  
  レジのおねえさんに聞くと、春にしか採れなくって、炒め煮にすると美味しい・・・とのこと。

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  家に戻って、
  ネットで調べると、
  あくが強い野菜なので、
  葉は重曹、茎は塩、
  根は酢水で、
  それぞれあく抜きを
  する必要が
  あるそうです。

  丁寧に下処理をして、
  「きんぴら風」に
  してみました。 

  歯ざわりが、シャキシャキして
  ごぼうでもふきでもない不思議な食べ物。
  美味しいか?って? 
  モチロン、料理の腕がいいから、美味しいに決まってるぅ(*^。^*)
  
posted by パッサカリア at 08:36| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

大楠公さんの旅2

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   楠木正成公(以下、大楠公さん)の
   誕生の地。
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   畑の横に、大楠公さんの産湯の井戸の看板!
   畑をこえ、階段をなん段も降りていくと、
   井戸!?・・・というより、水たまり?が。
   昔は、清らかな水が湧き出ていたのでしょう。


   赤坂城跡を、見つけるのは大変でした。
   なにしろ山の中ですから、
   ぐるぐる回っても見つからない。看板もない。人もいない。

   工事をしていたオジサンを見つけ、聞いてみましたら、
   「学校の道(急斜面)をあがって、左に曲がればすぐだよ」
   エ・エ・エ???学校の校道を上がっていいの?
   工事のオジサンのいわれるとおり、千早赤坂村立中学校の道を上がって、左へ。
   左????(@_@;) 校舎の間じゃないのよ。
   ここで、学校の先生らしき人が・・・「この坂をあがってください」。
   またもや坂?? 
   見ると、やっと車が通れる幅の急斜面。左側はなんもない。踏み外したら(@_@;)・・・

   ・・・・・で、見事、到着!!

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  ここが
  激戦の地
  という面影など、
  微塵もなく、
  吹く風は爽やか、
  ウグイスの声が
  あちらからもこちらからも聞こえてきます。

  思い描いていた赤坂城の山城は、ぐんと低めで、
  幕府軍もおそらく、急ごしらえの城は簡単に落とせる!と思ったに違いない。
  ところが、大楠公さんの軍は、地の利をいかしたゲリラ戦を展開。
  そして、煙のようにトンずらして、
  10ヵ月もの間、行方をくらましてしまった。

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   さてお次は、いよいよ千早城。
   (ここは、車ではあがれない)
   落城することがなかった、
   難攻不落の山城です。
   「絶対落ちないパワースポット」の
   看板横の、手すり付きの石段を〜!
   ところが、すぐに手すりは無くなり、
   石段も不規則のガタガタになって、
   と〜〜んでもないことに。
   落ちていた枝をつえ代わりに、
   一段、一段と休みながら・・・・

   上のほうから、主人が、
   「大変だから、そこで待っていても
   いいよ〜〜お〜〜〜」の声。

   (・へ・) ここまで来て、
   登らないで おくべきかあ〜〜〜。

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  鎧兜を身に着け、
  こんな山ん中を
  走り回った武士たちは、
  エライ!
  岐阜城の金華山よりも
  厳し〜い。
  あたしゃ、もう二度と
  来ない((+_+))
  クッタクタ〜〜〜〜

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  はてさて、この千早城は
  思ったよりも狭く、
  ぐる〜〜〜っと四方八方、
  よく見渡せます。
  今は、し〜〜〜と、
  静まり返った千早城跡、
  勝ちどき、人々の走り回る音、
  武具のすれ合う音が、
  今にも、聞こえてきそうです。
  兵どもが夢のあとです。
  

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2018年04月04日

大楠公さんの旅1

  大楠公さんの足跡をたどる旅は、お天気に恵まれ、とっても楽しい旅になりました。
  それはまず、
  高速を下りたところの、トイレ休憩で寄ったコンビニから、はじまりました。

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  トイレが使用中で待っていると、
  お尻をモソモソした若者が、トイレめがけて大急ぎで入ってきました。
  その若者、私を見て
  「おねえさんも待ってるんスカ?」・・・・・・ このノリ、大阪人!!
  トイレに入りたくってギリギリって感じなのに、そんな時にも
  「おねえさん」が出てくるちゅーとこが、すごい。
  私もお笑いで返さねばと思ったけど、とっさのことに出てこなかった(残念)
  なんだか、吉本のお笑いを、ただで見せてもらった気分で、お礼に、
  お先にどうぞ!って順番を譲ってあげた。
  若者、うれっしそーな顔で、「オレ、早いっすから」
  ・・・・・(^◇^)いえいえどうぞ、ごゆっくり。

  大阪人のノリ、いいねえ〜〜〜。
posted by パッサカリア at 22:06| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月03日

イザッ、歴史旅へ

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    本日、歴史旅へ出発いたします。
    今回のテーマは、「楠木正成公の足跡をたどる旅」です。

    赤坂・千早城でのゲリラ戦は、
    一説によると「三国志」の戦法と全く同じあって、
    創作である、というようなことを、
    何かの本で読んだことがあります。

    交通や商業の利権を得ながら、
    勢力を拡大してきた名もない地方の豪族が、
    後醍醐天皇の命を受け、一躍歴史の表舞台に立ち、
    わずかな500の兵で、何万という幕府軍を蹴散らした!ということは、事実です。
    その戦ぶりが、創作であろうがなかろうが、私にはどーーーでもいいことで、
    この痛快劇のあった場所に立ち、
    正成公と同じ空気を吸って、風に吹かれてみたい! ただその思いです。

    いざいざ、8時に出立〜〜〜ッ!!
posted by パッサカリア at 00:14| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

ズッコケ夫婦の歴史旅は?

4月に入ってすぐに、2日続きのお休みが出来ました。
そうなると、
うずうずしてくる歴女ならぬ、歴オバの私。
なあ〜んちゃって歴史家の主人と共に、夜な夜な新たなる歴史旅の野望を展開中です。

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   歴史上の人物で魅力を感じる人は、
   たとえその道が
   破滅の道であると知っていても
   頑固なまでに自分を貫き通す人です。

   ・・・・・・・・・・・・・・・

   「太平記」を読んだ二年前から、
   決してぶれない楠木正成・正行親子の、
   とりこになってしまいました。
   ここは是非とも、イザッ河内の国へ!と
   言いたいところです・・・・・・・?

   今までに、
   大楠公さんの終焉の地・湊川神社、
   ♪青葉しげれる〜♪の歌の、桜井の駅、
   小楠公さんの首塚のある宝筐院など、
   その生きざまを追ってきました。

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   出来ることならば、今回は、
   大塔宮親王を擁し、わずか500の兵で
   何万ともいう幕府軍と、
   熾烈なゲリラ戦を展開した赤坂城と千早城。
   その城跡にのぼって、
   ウシウシ(^0_0^)幕府軍、してやったり!と、
   見下ろしてみた〜〜〜い。

   さてさて、ズッコケ夫婦の歴史旅、ご期待あれ!
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2017年12月16日

南北朝のヒーロー

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   本日、UPした中で、吉川英二の二は、
   「治」でした。お恥ずかしい限りです。

   せっかくUPするので、ついでに・・・・

   南北朝時代のヒーローは、やはり楠木正成公です。
   →こちらの本は、本屋で立ち読みしているうちに、
   楠木一族の出が、
   なんと〜〜北条氏の御家人だった??という説に、
   ビックラコイテ、思わず、購入しました。

   この本によると、
   中世の武士たちは、本拠を置いた土地の名を
   名字につけるのが一般的で、
   楠木とある地名を日本中調べると、駿河国の楠木村(現・静岡市清水区)があり、
   その地は、なんと〜幕府の管轄地域。
   楠木一族の先祖は、幕府(北条氏)の御家人!(かもしれない)というのです。
   江戸時代に書かれた「鎌倉将軍家譜」「高野春秋編年輯録」にも、
   同じような記載があるらしいです。
   300年以上たって書かれた書物を信じるかは、自由ですが、
   この説、楠木正成ファンには、あまり嬉しくないですねえ〜〜。
 
posted by パッサカリア at 21:41| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

300円のクリスマスプレゼント

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   昨年・今年と、
   とっつきやすい吉川英二の
   「私本・太平記」をベースにして、
   歴史本や史跡も訪ねつつ、
   南北朝時代を解き明かしてきました。
   探れば探るほど、面白い南北朝時代。

   さてさて、
   先ほど古本市へ行ってきた主人が
   戦利品?の古本の中から、
   300円の値札が燦然と輝く、
   平成2年出版の
   「太平記の世界」という本を、
   プレゼントしてくれました。

   ペラペラめくると、
   ワクワクするような公家や武将の名前が
   連なっています。
   また、史跡の写真も多く、旅行した気分。今宵は、この本を読みふけることにいたします。

posted by パッサカリア at 14:39| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

おあんさんに逢いに

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 久々に、歴史を。

 時は、天下分け目の
 関ヶ原の戦いの時期。
 それは超有名ドコですが、
 そこに至る少し前にも、
 三成と家康の戦さが
 あったことを
 ご存知でしょうか?

 それは、関ヶ原から少しの
 大垣城での籠城戦でした。
 そして、その戦いの中で
 15歳の少女が
 懸命に生き抜いた話、
 「おあん物語」を
 聞いたことを思いだし、
 いつか訪れてみたいと
 思っていました。


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  石田三成の家臣の、
  山田去暦(きょれき)の
  娘、おあんは、城での
  凄まじい経験や、
  落城寸前に
  脱出したことを
  のちに、


  自分の孫や近所の子供たちに、語り継いだ人です。
  それを書き留めたのが(筆録者不明)「おあん物語」。
  http://www.j-texts.com/kinsei/oan.html

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  お城は、空襲で焼け、
  今の白壁の美しいお城は、
  昭和に建てられました。

  鉄砲狭間(ざま)からは、
  公園の緑が見えます。
  その昔、
  この地で壮絶な戦いが
  あったとは・・・・
  つわものどもが夢のあと。

  像は、
  家康の時代に
  大垣城主となった
  戸田氏鉄公。
 
 
posted by パッサカリア at 23:44| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

エセ歴女のしったかぶり

フェイスブックのほうにコメントがあったので
えらそうに、しったかぶっちゃって、少し書こうと思います。

大阪夏の陣には、いくつかの戦いがありましたが、やはり最大の山場は、「道明寺の戦い」でした。
真田信繁(以下、幸村とします)は、
ここで後藤又兵衛を失くし、豊臣の敗けを現実のものにしたと思います。

この戦で、幸村が直接戦ったのは、伊達軍で、伊達政宗の側近の「片倉小十郎」でした。
(小十郎は、政宗の悪い目玉をくりぬいた話も残っている側近で、政宗より10歳年上の勇猛な男。
 政宗の養育係りが小十郎の姉で、身内の愛情が少ない政宗にとって、
 小十郎との関係兄弟・親子以上のきづながあったと思われます)

その小十郎が、政宗に先がけて、鉄砲で幸村と激しい戦いをした。
その時、幸村も小十郎も、互いにその戦いぶりに武将としての器の大きさを感じ入ったと思われます。
敵ながら、アッパレ!と。
そして幸村は愛する子供たちを小十郎に託し、
小十郎も、幸村の思いを受け止めて、家康から幸村の子供たちや真田の家臣を守り抜くのです。

この時代の武将の眼力というか、人を見ぬく力の凄さと、義をつらぬく凄さは、
私の想像をはるかに超えるものです。
もしもバレたら、切腹だけでは済まされず、
片倉の家も、ヒョットシテ伊達家さえもおとりつぶしになるやもしれないのですから。

これと同じような話は、大谷刑部の側近・湯浅五郎と藤堂高刑にもあります。
当ブログの昨年の9月15日(武士の約束)を、読んでいただければいいかと。

  幸村の娘のお梅はその後、小十郎の正室にもかわいがられ、正室亡きあとには、
  小十郎の継室となって、真田の名を汚さず、家来たちに慕われ、片倉家を守っていきます。

いかがでしょうか?こんな程度でよろしいですか?
ご質問の、信之の元正室や、側室きり、などについては、話が長くなるので、いずれまた・・・・。
またいろんな裏話などは、お目にかかった時に。
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2016年08月04日

真田丸に、もの申す

NHKの「真田丸」、面白いですねえ!!

前々回に放送された「秀次事件」については、
歴史大好きな私が興味をもっている事件のひとつなんですが、
どうもあのNHKの展開は納得ができません。

あれは、
矢部健太郎氏の著書「関白秀次の切腹」の、新解釈を参考にしたらしいのです。
(そして先ほどBSで放送された「歴史捜査」の秀次事件解明番組も、矢部健太郎氏監修でした)

    「秀次は勝手な思い込みで自害してしまった――!
     秀吉は切腹の命令は出していなかったー! そんな描き方をしていました」

・・・・・・が、本当にそうだったのでしょうか???。

あの描き方では、秀次も秀吉も心優しい良い者で、
実は悪い人は誰ひとりいなかったことになって、めでたしめでたしの展開になってしまうのです。

百歩譲って、
秀次がうつ病状態で勝手な思い込みだったとか、身の潔白を証明するために武士らしく切腹したとしても、
そのあとの秀吉の凄惨な処理を、どう解釈すれば良いのでしょう? 

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   正室・側室・若君・姫君39名。
   (諸説あるようですが)
   4歳の仙千代や幼い姫君や
   目通りもしてない側室さえも、
   牛車にのせ都をひき回し
   5時間もかけて、次々と
   公開処刑する理由です。
   そして、
   邸宅にしていた聚楽第や近江八幡城を
   ことごとく破壊させたこと。 
   ・・・・他にも、まだあります。
   叔父・甥の互いの思い違いで
   起きたような軽い事件では絶対ない。
   狂気に満ちています。
   この39名も殺した出来事は事実です。
   この事実を、新解釈とやらでは、
   どう説明するんでしょう。

     
   こちらの写真は、秀次の正室・側室・子供たちの
   お墓がある、京都・三条の瑞泉寺です。
   斬首されていく有り様を見た旅の僧・順慶が、庵をむすび、
   秀次のご典医だった角倉了以の弟が、角倉了以と共にお寺を建てました。
   (4・5年ほど前にお参りしてきた時のもの)
   
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2016年07月20日

晴れ夫婦の歴史旅7


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   さて、移動中はことごとく雨降りで、
   車から降りると必ず晴れる!という、
   不思議な旅も、いよいよ最終章です。
   
   八坂の塔を見上げながら、
   清水寺にむかって、
   三年坂にある「清水三年坂美術館」へ。
   明治の職人の緻密な技に
   目をうばわれ、心うばわれてきました。

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   そしてお馴染みの「霊山歴史館」。
   近藤さんと土方さんの刀が
   150年ぶりに京都で再会!というので、
   お邪魔しました。

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  京都のお土産は、六波羅密寺の前にある、
  幽霊子育て飴本舗の「幽霊子育て飴」。
  ここの飴は、クセが無く美味しいんです。

  お店の方がおっしゃるには、
  500年前からここで飴屋をやっていて、20代目とのこと。
  飴の材料の配合は500年前と同じ!だそうです。

  ・・・・・今から413年前、関ヶ原の戦いの前の年、
  夜なよな女の人がやってきて、飴を買っていきました。
  おかしいと、あとをつけると 鳥辺山の墓場までいきました。
  ・・・と、乳飲み子の鳴き声が・・・・
  墓を掘り起こすと、飴をしゃぶった乳飲み子がいたというのです。
  死んでもなお我が子かわいさで 飴を買いにきたと。
  この子、8歳で僧となって母の菩提を弔い、68歳まで長生きしたそうです。

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  いとも簡単に、
  500年前から
  営んでいる!という
  飴屋さんの言葉に
  たじろぎながら、
  今の人も昔の人も
  飴屋も武将も
  一つの事を
  貫き通すことの
  凄さに圧倒された、
  「晴れ夫婦の歴史旅」。
  
  いよいよ完!!


  
  
    

posted by パッサカリア at 10:15| Comment(2) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月19日

晴れ夫婦の歴史旅6

選挙権が18歳になって、若者への期待が大きくなってきました。

乱世の若者も、見事な生きざまで名を残しています。
今回の旅の中心人物である「楠木正行(まさつら)」、
父・正成と行動を共にしてきましたが、
桜井の駅で父に諭され、別れたのが11歳(諸説あるようですが)。
そして一族を率いて再び足利軍(高師直)と戦い、
四条畷で自刃したのが23歳。

(今回の旅では回れませんでしたが)
北畠顕家は、義良親王を奉じて陸奥へ出陣したのが16歳。
そして、後醍醐天皇へ建武の新政の諌奉書を書いたのが21歳。
乱世の若者の凄さと言ったら、驚くほかありません。

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  大阪の桜井の駅跡をあとに、
  正行の首塚がある京都・嵐山の宝筐院へ。
  それは、
  嵐山の喧騒から離れた清凉寺のすぐ隣にありました。

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  参拝者は、
  我ら夫婦のみ。  
  さっきまでの雨が
  上がり、
  濡れた石畳も
  青もみじも、
  美しい〜。

  この先の正面に、正行の首塚があります。
  
  正成・正行親子と親交があり、
  後の事をたくされていた宝筐院の黙庵和尚は
  正行の討たれた首をここに葬り、
  弔ったと伝えられています。

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  右側に楠木の紋所・菊水、正行のお墓です。
  後に、
  この話を黙庵から聞いた足利義詮は、
  正行の人柄を褒め称え、
  自分もその傍らに葬るよう頼んだと
  いいます。 それで、左手に
  室町幕府2代将軍足利義詮のお墓です。

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  このお堂に、
  正行の木像が
  祀られていますが、
  小さくって暗くって
  よく見えません。

  正行の顔をこの目で見たい!
  父と共に命を懸けて貫いた若武者の顔を見たい!!と。

  レンズを望遠にして・・・・・も、真っ黒で写らない。
  と、後ろからISO感度を調節して!との、神の声が・・・(いや、主人の声)
  ・・・で、写しました(今の私の技術ではこれが精一杯)。

  お目にかかりたかった。
  子供の時、父が歌って聞かせてくれた桜井の訣別の歌のあの時から。

  この旅の主役・楠木正行公。

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  いよいよ私の旅ももうすぐ終わりです。
  次回は最終回。 少し観光と、幽霊の飴のお話です。

posted by パッサカリア at 16:24| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

晴れ夫婦の歴史旅5

2日目は、私の興味の歴史旅です。

吉川英治の「私本・太平記」を読んでみて(実はまだ途中です)、
裏切ったり裏切られたりの乱世の中で、
決してぶれない人たちの生きざまに興味を持ちました。
その人たちとは、「楠木正成・正行親子と、そして北畠親房・顕家親子」
今回は、河内の交通や港の利権を持ち、
土地の人にも信頼され、勢力を拡大していた楠木正成・正行親子を訪ねました。

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  楠木正成について、
  深く同情することがあります。

  後醍醐天皇に認められたことが、
  身分の低い正成ににとって、
  末代までの名誉であり、
  そのご恩に報いる事が
  正成の生きる目標だったに
  違いありませんが、
  同時に、それは破滅の始まりでした。

  後醍醐天皇の政策が、この時代にそぐわないことは、
  分かっていた(と私は思っている)。
  にもかかわらず、後醍醐天皇をお守りする道を、貫き通す。 

  しかしながら、九州から攻めてくる数十万という足利軍に勝つための、最後の秘策も、
  一笑にふされ、ことごとく意見はとりいれられない。

  所詮、後醍醐天皇や公家たちから見れば、武士たちは、戦のコマであったにすぎず、
  ましてや河内の国の悪党の楠木正成など、ものの数ではなかった。

  そして、あの有名な、
  ♪青葉しげれる桜井の〜〜〜♪の歌にある「桜井の訣別」です。

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1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か

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  2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて
    父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん
    汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ

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3.父上いかにのたもうも  
  見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん  
  この正行は年こそは
  未だ若けれ諸(もろ)ともに  
  御供(おんとも)仕えん死出の旅
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  4.汝をここより帰さんは  
    我が私の為ならず
    おのれ討死為さんには  
    世は尊氏の儘(まま)ならん
    早く生い立ち大君(おおきみ)に  
    仕えまつれよ国の為

  5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  
    君の賜いしものなるぞ
    この世の別れの形見にと  
    汝(いまし)にこれを贈りてん
    行けよ正行故郷へ  
    老いたる母の待ちまさん

   ある本によると、
   ゲリラ戦を得意とした正成のことだから、
   湊川の戦いでも、生き延びることが
   出来たはずだ・・・と。(私も、そう思う)
   しかし、正成は死を選んだ。 
   最後の策さえも認められなければ、
   もうこれは死ぬことしか、正成の道はないでしょうよ。
   あとは、息子が成人となったその時代に、託すしか・・・・・

   次回は、父の遺志をついだ正行と、敵である尊氏の息子・義詮に会いに!!
   (つい力が入って長々と書いてしまいました。最後までお付き合いくださり有難うございました)

      


  

  
posted by パッサカリア at 00:21| Comment(2) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月17日

晴れ夫婦の歴史旅4

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  朝早くに出発して、ノンストップで、奈良へ。
  ひと休みに、
  宇陀の道の駅で、清流を眺めながら
  昼食に、「にしんそば」をいただく。

  京都じゃあ〜あるまいし、奈良でにしんそば?
  まあ〜いい、好きなものが嬉しい。

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  そして、夕食。
 
  2人で旅を
  するように
  なって、
  型にはまった
  宿の夕食はせず、
  少しネオンでお化粧をした街並と
  土地の人たちの息づかいを感じつつ
  行きあたりばったりで、
  美味しいものを探すようになりました。
 
  佐保川の橋のたもと。母娘二人の小ざっぱりとした居酒屋の暖簾をくぐりました。   
  

  まだ7時だというのに、シッカリ出来上がったおじいさんが、
  お店のおねえさんと、他愛もない会話中〜〜!
  外国人と日本人とセットのお客。刺身の盛り合わせを説明中〜〜!
  よ〜く飲む大阪弁のおばちゃん2人。朝ドラの話で盛り上がってる。
  そして、私たち夫婦。
  珍しい食べ物を探すのにメニューとにらみ合いっこ。
  ≪ふわとろ焼き≫。 
  これってなに??早速、注文。
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  出てきたのがこれっ!!
  すりおろした大和イモに生姜や鰹節など混ぜ、焼くのだそうで、
  トッピングは明太子とマヨネーズと海苔。これがとっても美味。
  (コレ、作れそう〜婿さんたちに作ってあげたい)

  「また奈良にご旅行の時は、おいで下さ〜い」という言葉に見送られながら、
  遠くに、ライトアップの大極殿を眺め、ぷ〜らぷらと宿に戻りました。

  さて、主人の奈良の旅は終わり。いよいよ次回は、私の歴史の旅がはじまります。

posted by パッサカリア at 10:30| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月15日

晴れ夫婦の歴史旅3

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  万葉少年?の
  説明によると、
  日本最古の神社!
  だそうで、
  その最古の
  「石上(いそのかみ)
  神宮」へ。

  石上神宮を
  中間地点として、

  北に行けば奈良、南に行けば三輪・桜井へと、山の辺の道が続いています。
  この神宮を行きかう万葉人の姿を思い描きながら、参拝です。

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  やたら人懐っこい鶏が
  私をめがけてやってきました。
  あれ〜れ〜〜〜Σ(゚c_゚)

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  鬱蒼とした森の中の社殿から、
  雅楽を練習する音が
  聞こえています。
  まったりとした響きが
  実に、優雅です。

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  いよいよ主人好みの奈良の旅も
  佳境に入りました。
  
  途中、悲劇の皇子・大津皇子が
  埋葬されているという二上山を
  正面にのぞみながら、
  今夜の宿へ移動しました。

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   次回は、奈良の美味しいものを
   ご紹介しましょう〜(*^_^*)
 



posted by パッサカリア at 11:29| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月14日

晴れ夫婦の歴史旅2

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 次に訪れたのは、
 奈良県葛城市にある
 「當麻寺(たいまじ)」。

 山門の前で、
 写生をしていた中学生が
 関わることなど
 ないはずの旅の私たちに
 雨上がりのような
 爽やかな響きで、
 「こんにちは〜」と声を
 かけてくれました。
 それは一瞬の
 たおやかな時の流れでした。
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 中学生をあとにして、當麻寺に入ると、
 ここで作られていた漢方薬の
 陀羅尼助の大きな釜が
 出迎えてくれました。
 (主人は子供の時にお世話になったと)
 
 いよいよ
 このお寺で尼となった中将姫の
 剃髪のお堂へ向かいます。
 中将姫のお話はとても悲しい。
 以下、主人の解説や大和の傳説などを元に、
 私なりにまとめてみました。

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   藤原鎌足の曾孫・藤原豊成の娘・中将姫。
   5歳で母親と死別し、9歳の時に、
   孝謙天皇のご前で琴を演奏をするなど、
   美貌と才能に恵まれましたが、
   同時に、継母から憎まれ、
   虐待を受けるようになります。

   継母は、姫の命を奪うように
   家来の松井嘉藤太に命令します。
   宇陀の山奥深く、
   姫を輿に乗せてた嘉藤太は
   「お命を賜ります、お覚悟を」と
   申し上げると、姫は、
   「母上の言い付けならば是非もない。しかし、
   私は一日に七巻の経文を読む習わしで、
   今日は三巻読み残している。残りの経文を読むまで、待ってもらいたい」と頼まれた。

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  読経をおえた姫は、
  「思い残すことはない。首を持ち帰り
  母上に見せておくれ。」
  しかし嘉藤太は、信心深い姫を
  救う決心をします。
  家にもどり、どうやって姫を救ったらよいかと
  妻と相談していると、話をきいていた娘が、
  姫の身代わりとなって自害します。

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  自分がいるばかりに継母や
  家来の嘉藤太の娘を不幸にし、
  また自分が生まれたばかりに
  実母の命は亡くなり、
  この世の無常を感じた中将姫は、
  19歳の時、當麻寺へきて
  名を中将法如尼と改め、一心に修行します。


  26歳の時、ひとりの老尼が現れて、
  蓮の茎を集め、その蓮糸の筋をとって、曼荼羅を織ることを命じました。
  中将法如尼は、
  織りあげた曼荼羅を本堂にかけて、懸命にいのっているうちに、
  生身の阿弥陀如来と二十五菩薩のお迎えを受けて、生きながら西方浄土へ旅立たれたといいます。

  悲しい悲しいお姫様のお話でした。

posted by パッサカリア at 22:46| Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする