
あなたは日本の歴史の中で、
だれが好きですか?
アンケート情報によると、人気ナンバー1は、
坂本竜馬だそうでが・・・・・
今日は、
私が大好きな武将の一人「大谷刑部吉継公」と
その側近の「湯浅五助」のお墓に参りに、
関ヶ原まで行ってきました。
奇しくも大谷刑部と湯浅五助の命日が
9月15日、明日でした。
おわかりとは思いますが、チョックラ歴史の復習!!
大谷刑部は関ヶ原の戦いで負けるとわかっていたにもかかわらず、
強い信頼で結ばれていた石田三成に加勢します。
この時、刑部は、ハンセン氏病に侵され、すでに視力も無く、
損傷した皮膚を隠すため、顔には白い頭巾と死に装束で、指揮をしたそうです。
平塚為広など名だたる家来が破れ、いよいよ敗色が強くなったことを悟った刑部は、
側近の湯浅五助に「病気で崩れた顔を誰にも見せるな!」という言葉を残して
自刃します。
湯浅五助は刑部の首を隠すために穴を掘って埋めますが、
運悪く、藤堂高虎の甥・藤堂高刑(たかのり)に見つかり、
そして、刑部の側近中の側近である湯浅五助ということも、バレテしまいます。
高刑は、湯浅五助ほどのものが、主君の居場所を知らぬわけがない!と詰問し、
もしやこの周辺に、主君の遺体を埋めて隠したのではないかと詰め寄ります。
湯浅五助は、確かにこの周辺に主君の首を埋めたが、
「病気の顔を絶対に見られたくない」との命を破るわけにはいかない。
自分の首を差し出すから、主君の命を守らせてほしい、と懇願します。
この言葉に、高刑は大いに感激し、湯浅五助の願いを聞き届けました。
それは鬱蒼とした関ヶ原の山の中深く、
まるで主君大谷刑部に寄り添うように、湯浅五助のお墓がありました。
義にあつい大谷刑部、主君を守り抜いた湯浅五助、そして平塚為広。
戦国の武将たちの声が聞こえてきそうな・・・・兵どもが夢のあと。
この話には余談があります。
陣に戻った高刑は、家康に、湯浅五助の首を見せ報告しますが、
家康は、「主君の最期を見届けずに、側近中の側近が死ぬとは思えない、何か隠しているな?」
(と、言ったかどうかはわかりませんが・・・)
高刑は手打ち覚悟で、
「湯浅五助との約束を破るわけにはいきません、たとえ家康様でも話すわけにはいきません」
家康は高刑の律義さを大いに褒め、自分の刀と槍を褒美に与えました。
そしてのちに刑部の墓は、藤堂家によって立てられたそうです。
posted by パッサカリア at 00:23|
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